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総本山 仁和寺(京都市右京区)

集鳥山 清林寺の歴史

集鳥山 清林寺は、真言宗御室派の寺院で、天平十二年(740年)行基菩薩の開基と伝わっています。

昔から松柏が繁茂して山頂にまで及び、神木霊草の山とされていたこの地に、天平十二年辰の年、奈良の僧 行基が訪れ、巡錫の杖をとどめたところ、「山鳥集い来たって鉦磬に和鳴きそのさまは、梵唱一体さながら密厳浄土のようであった。」このことより、この山を集鳥山と名付け、草庵を結び修禅観法の道場としたことが清林寺の始まりと伝わっています。

また、天正年間には、羽柴秀吉軍中国征伐上月城攻めの際には、一時本陣をおいたと伝わっています。

集鳥山は、佐用川・千種川の二つの清流を臨み観ることができ、近郊と境内を併せ望む風景は素晴らしく、昔から郡八景の一つに数えられてきました。しかし、昭和五十一年、台風により裏山が崩れ、堂宇・境内が全壊。その後、復興に併せ、もみじを植栽し、近年は、「もみじの寺」として皆様に親しまれるまでになりました。

 

開山 行基菩薩

清林寺全景

集鳥山 清林寺の御本尊

聖観音/しょうかんのん

ご真言 オン・アロリキヤ・ソワカ

寺伝では行基作と伝わるが、年代・作者等は不明です。通称「観音さん」と呼ばれ、日本で最も馴染みのある仏さまです。正しくは観世音菩薩・観自在菩薩という慈悲の仏さまです。観世音とは、世間の人々の救いを求める声(音)を観じると、ただちに救済の手を差し伸べるという意味で、観自在とは、一切諸法の観察や人々の救済が自在であるという意味です。困った人がいれば、時・場所を選ばず、そのお姿を三十三身に変え、一切衆生を救済されます。聖観音は、こうした多様な姿の観音菩薩の中で、最も基本的な尊格とされ、観音そのものという意味で正観音とも称されています。

 

苦難除去、現世利益、病気平癒、厄除け、開運、極楽往生などとても幅広いご利益があります。

聖観音/秘仏 一般公開はしていません

 真言宗御室派の歴史は仁和寺の開創に始まる。真言宗の事相の流派「広沢流」の本拠として発展し、仁和寺門跡に二世性信法親王(大御室)が就任されて以降、明治時代初期まで門跡には法親王(皇族)を迎えた。1167年(仁安2年)五世覚性法親王(紫金台寺御室)が綱所の印璽を下賜され、日本総法務に任ぜられると諸宗格山を支配し、日本仏教界に君臨した。塔頭寺院・子院が60余を数えた時期もあった。なお紋所は、桜に引両である。

中世に入ると、応仁の乱の戦火で、仁和寺が全焼したことが原因で衰退した。戦国期以降は足利氏・織田氏・豊臣氏が復興に努めたが、本格的な再興には至らなかった。

江戸時代に入り、江戸幕府による資金援助があり、現在地に堂塔の再建がなり、再興を果たした。

明治維新に際し、勅命により、三十世純仁法親王(楞厳定院御室)が還俗し改称した小松宮彰仁親王が、1883年(明治16年)に仁和会を組織し、仁和寺の復興に尽力した。三十一世以降、門跡に皇族を迎えることは無くなった。

東寺の傘下を出入をしたが1900年(明治33)年、独立して真言宗御室派を公称。派を廃して、1926年(大正15年)に金剛峯寺・大覚寺とともに古義真言宗を称した。太平洋戦争中、政府の宗教政策により、真言宗の古義・新義両派を合同して大真言宗になったが、戦後独立し、1946年(昭和21年)、真言宗御室派として発足し現在に至る。

 

真言宗御室派について

宗祖: 弘法大師空海

派祖: 寛平法皇(宇多天皇)

真言宗御室派

清林寺の歴史

清林寺の本尊

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